history.png

m2twで扱われる中世(11世紀~16世紀)の歴史についてなんでも。

とりあえず分類が分からなければ「用語辞典(総合)」に記載。


目次


中世

medieval.jpg

medieval、またはmiddle age。

中世と言うのは世界の何処で使われるかにより年代が大きく異なる。

西洋で語るなら6〜11世紀が「中世前期」、11〜14世紀が「中世盛期」、14〜16世紀が「中世後期」と三つに分けられる。

m2twは1080年から1530年、即ち11世紀末から16世紀初頭の時代を扱っている。

暗黒時代

別に中世に魔王が支配していた時代があるわけでは無い。

暗黒時代と言うと、世界各地・長い歴史でそれに相当するものは幾つかあるが、とりあえずここでは中世ルネサンス以前の暗黒時代とするのが正しいか。

要は古代ローマやギリシアの文化文明が失われ、戦ばかりで不毛な時代だった。

紀元前ちょっとから10世紀くらいまでの間を指す。

これに対して黄金時代と言う単語があるが、これは特にルネサンス期を指す期間としては使われない。

ルネサンスはルネサンス時代(期)として扱われる。

黄金時代が中世に使われた例はあまり無く、ギリシャの神話時代(神々が人を治めていた頃)とか

近代の19~20世紀のアメリカとか、そのあたりが良く黄金時代として指される、

スペインが大航海時代で雄飛した16世紀は、スペインの黄金世紀と呼ばれた。

ルネサンス

Renaissance.jpg

ラファエロ作/アテナイの学堂

Renaissance、リナシメント(伊)。直訳では文芸復興や再生と言う。

古典文化を復活させようという世の中の流れが、中世ヨーロッパで起こったことを指す。

14〜16世紀の出来事で、m2twでは丁度後半の話。

古代ローマ帝国が欧州全土を席巻していた頃は、その栄華は余すところなく降り注ぎ、民は不幸であったかもしれないがとりあえず文化レベルは高かった。

しかしその瓦解に伴い、群雄割拠の時代に戻った欧州は大きな文化的後退・停滞期を迎える。

一桁世紀の間の文化発展は遅滞し、その状況はペストが欧州に蔓延し大量に死者を出した1350年頃まで続く。

ペストに伴い一部に広まった終末思想が影響を与えたのかどうかは分からないが、兎も角この後に急激に古代ローマやギリシアの栄えた文化を復興しようと言う試みが行われ始める。

詩人ダンテや学者のペトラルカ、芸術家のミケランジェロ、ラファエロ、ドナテロ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチがルネサンス期に活躍した人物としては著名か。

無論この時代の文化的盛り上がりは凄まじく、名を上げた人物は星の数ほど。

オペラの原型もこの間に産まれた。イタリアのフィレンツェを中心としミラノ・ボローニャなどが中心となってルネサンスは栄えた。

因みにルネサンスはイタリアが中心であったが、フランス・イングランド・スペインなどに時間差で広まった。

その盛り上がりもイタリア程ではなく、厳密に「ルネサンス」と言う古代文芸復興の流れを組むものでは無く、全く新たな文化の起こりとも取れるような作品が多い。

人物としてはシェイクスピア、ジェフリー・チョーサー、エラスムス。作品としてはカンタベリー物語、痴愚神礼賛、ドン・キホーテなど。

色々と線引きが難しい歴史的事象だが、とりあえずm2tw後期辺りはヨーロッパはルネサンスの渦中にあったとの認識で問題ないかもしれない。

騎士

Knight.jpg

Knight、中世の華。

シュバリエ(仏)、リッター(独)、リッデル(阿蘭)などと呼ばれる。

騎士では無い騎兵はキャバリー、キャバリアなどの名称。ナイトとはしっかり区別される。

ただ、騎士と騎兵とで呼称が違うのは英語圏独自のもので、シュバリエもリッターも文字通り「馬に乗る者」を示す。

シュバリエを英語読みするとキャバリアであるし、リッターを英語にするとライダーである。

英語の「ナイト」はドイツ語の「クネヒテン」を語源に持つ。

貴族の階級では低い方である。王や諸侯に付き従う者としての性格が強い。

だが、他の階級と複合する事もあり、後付でナイトの称号を得た有力者も多く、一概にナイトだからと言って、その身分を推し量る事は出来ない。

下級貴族や平民がナイトの位を得てなりあがる、なんてのは話しのネタとしてはありがちである。

忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕などの徳を修める事を教義とし、人格者たることが求められた。

また、ご存知の通り重武装で、戦場や移動の際には従者と呼ばれるお供の者が複数付き従った。

因みに騎士は全てランスチャージで戦う為に長大なランスを用いていた訳でなく、槍持ちと呼ばれる従者から必要に応じて受け取っていた。

また、ランスは敵に突き刺して上手く抜けるとも限らず、時には砕けたり、未熟な騎士が逆に槍に引っ張られて落馬することもあった。

基本的には突撃時でも、ランスは使わず常に帯びている剣などで攻撃したりするのが一般で有る。

日本の武士と同じく、幼少時からベテランの先輩騎士に教えを請い、成人時に一人前の騎士となる。

浪人のように特定の主を持たず、遍歴の騎士として諸国を漫遊する者もいた。

ただし、騎士は非常に金のかかる職業である。

武具や礼装、従者の給金、旅費、貧者への施しなど、面子を保つ為には湯水のように金を使わなければならなかった。

戦争があり、騎兵突撃が大活躍していた時代はまだ良かったが、パイクや銃が登場し騎兵の活躍が限定的になってくると、騎士は段々姿を消して行く。

高貴な精神を持った騎士は14世紀末にはほぼ姿を消し、確実に富を得られる職へと転じて行く。

吟遊詩人

bard.jpg

中世に限っての登場ではないが、やはり中世のイメージが強い彼ら。

中世の歴史を後世に残した立役者である。

北フランスのミンストレル・ドイツのミンネゼンガ・南フランスのトルバドール

ケルト人の司祭ドルイドの一つのバード、15世紀イタリアに現れたジプシーなどなど。

中東やアフリカなどにも似たような語り手は存在して、同じ様な働きをしている。日本では琵琶法師などの職が有名か。

基本的に賤しい職とされるが、人気の有るものは宮廷お抱えになったり。

芸能人的な感じか。

ノルマンコンクエスト

The Norman Conquest of England.jpg

イングランドは9世紀にエグバート王が七王国を統一して以来、サクソン王朝が支配していたが、

折からのヴァイキングの侵略に苦しめられることとなった。

主に侵略を繰り返していたのはデンマークから来襲するデーン人であり、世紀後半までに今日のランカスター、ヨークからテムズ川以北に至る中・東部一帯を支配し、

この地ではデーン人の入植やデーン慣習法が適用されたことから「デーンロウ(Danelaw、古英語から)」と呼ばれた。

一時アルフレッド大王の反撃によりその領域が縮小されたものの、大王の死後デンマーク王スヴェン1世双叉髭王の攻撃でイングランドは完全にデーン人の支配下に置かれ、

更に息子のクヌート1世はデンマーク、ノルウェー、イングランド3国の王を兼ね、「北海帝国」を現出させるなど強勢を誇った。

このときクヌートの王妃となったのは前イングランド王エドマンド2世剛勇王の妃エマであり、

彼女と前王との間にもうけた息子たちは彼女の故郷である対岸のノルマンディーに亡命していた。

クヌートが没し北海帝国が瓦解すると、イングランド貴族たちは再びサクソン王朝の復興を望み、

ノルマンディーで成人したエマとエドマンドの長男エドワード懺悔王を王に迎え、ついにデーン人をブリテン島から駆逐することに成功した。

しかし再興したサクソン王朝の情勢は決して安定したものではなかった。

当時サクソン貴族の一大有力者であったウェセックス伯ゴドウィンを中心とする貴族たちと国王との間には齟齬が生じていた。

サクソン貴族たちは旧来の秩序の回復を考えていた一方で、青年期を大陸で過ごしたエドワードにとってサクソンの慣習は馴染めるようなものではなかった。

国王はサクソン人よりもノルマン人を重用し、この亀裂は更に深まることになる。とはいえ王は妃にゴドウィンの娘を迎えるなど一応の対応は見せた。

だがゴドウィンが死ぬとエドワードのノルマン贔屓は一層強まり、懺悔王が継嗣なくして死の床に伏せると、

彼は後継者にノルマンディー公ギョームを指名した。エドワードは母方の縁でギョームの又従兄弟にあたるからである。

この知らせをギョームに伝える使者にゴドウィンの息子でエドワードの義弟ハロルドが任じられたが、彼は嵐で難破した挙句、漂着したポンテューで当地の伯ギーの捕虜とされてしまった。

その知らせを受けたギョームは交渉の末ギーよりハロルドの身柄を引き受け、その結果ハロルドはギョームの王位継承を支援する旨を聖遺物に誓って帰国した。

だがエドワード懺悔王が没するや、イングランドの貴族会議はハロルドの王位継承を決定し、彼はハロルド2世としてイングランド王に即位した。

これに対しギョームは先王との誓約不履行を主張してイングランド王位を要求、

これが拒否されると彼はローマ教皇に訴えてハロルド討伐のお墨付きを得て、その上で実力で王位を手に入れるべく遠征準備に着手した。

一方ハロルドはさらなる苦境に立たされた。

ギョームだけでなく、追放した弟トスティと彼を支援するノルウェー王ハーラル3世苛烈王の進軍が明らかになったからである。

このとき夜空を一筋の大きな流れ星が横切り、人々はこれを凶兆と捉え恐れおののいた。今日ではこの星はハレー彗星のことだったとされている。

ともあれハロルドはまず北から攻めてくるノルウェー軍に的を絞った。

すでにヨークを略奪して駐留していたノルウェー軍の隙を突いて強行軍で踏破し、急襲したのである。

この戦いはスタンフォード橋の戦いと呼ばれ、結果はハロルドの大勝利でありハーラル3世とトスティは戦死した。

このとき南部では天候の回復を待ったギョームがイギリス海峡を渡りイングランド南岸に上陸、

ハロルドは戦勝に浸る暇なく再び強行軍で取って返し、ヘースティングズでギョームと死闘を繰り広げた。

約半日にもわたる戦いの末ハロルドが戦死し、勝敗は決した。

ギョームはそのままロンドンまで進軍し、1066年のクリスマスにイングランド王ウィリアム1世(ギョームはフランス語読み)として即位した。

ウィリアムはサクソン貴族から土地を奪い、ドゥームズデー・ブックと呼ばれる土地台帳を編纂し、

まとまった土地を与えるのではなく荘園(マナー)ごとに分散して与えることで諸侯の力を制限することに成功した。

このノルマン人の征服によって、イングランド従来のアングロ・サクソンやデーン人の伝統に大陸(フランス)の制度や慣習がもたらされ、

イングランドは封建国家の仲間入りを果たすと同時に、イングランド王権はその整備によって他国と比較して強力なものとなった。

このノルマン・コンクェストの一部始終は約70mにも及ぶ亜麻布に刺繍された「バイユーのタペストリ」に記録されていることでも有名である。

バイユーのタペストリ

Battle of Hastings in Bayeux.jpg

左がサクソン軍(ハロルド率いるハスカールら)、右が騎兵突撃を敢行するノルマン軍(ウィリアム征服王の騎兵隊)。

11世紀、イングランドで作られた長い長いタペストリー。

亜麻布に毛糸で刺繍したそれは、11世紀のイングランドを中心とした中世ヨーロッパの歴史を今に伝える重要な資料。

幅50cm、長さ数十mもの長さで数百人の人物が刺繍されている。

ウィリアム征服王の妻マチルダが寄進したとも言われるが出処は定かで無い。

主に刺繍されているのはノルマンコンクエストの始終。

ハロルドの即位からウィリアムの帰還、ヘイスティングスの戦い、凱旋、戴冠式と続くが最後の数mは逸失してしまっている。

その合間に川の支流のように、進軍の様子や王侯貴族の会合、渡海の様子、大鍋で煮炊きする場面や

馬・盾・剣・槍・弓・軍装・聖職者・兵士・船・騎兵突撃の様子・ハロルドの防御壁・敗走の様子などが

当時の趣で刺繍されている。

レコンキスタ

Reconquista.jpg

8~15世紀に展開された、北部イベリアのキリスト教勢力による南部イスラム勢力に対する征服戦争。

「国土回復運動」とも訳されるが、字義どうりの「再征服」活動といったニュアンスのほうが正しく、

初期のイベリア諸国は旧西ゴート王国の継承者を主張していたが次第にその側面は薄れ、

南イベリア征服、あるいはイベリア全土の統一戦争としての性格が顕著になる。

711年にウマイヤ朝が当時イベリア全土を支配していた西ゴート王国の内紛に付け込んでこれを征服すると、

残された貴族はこぞって北方にのがれ、そこで引き続き対ムスリム抵抗戦争を展開した。

そうした中で貴族の一人ペラヨがアストゥリアス王国を建国、ウマイヤ朝の攻撃を退けここからレコンキスタが本格的に開始される。

アストゥリアス王国は10世紀にレオンに首都を遷しレオン王国と改称、世紀後半にはこのレオン王国の騎士ゴンザレスが自領の独立を達し、

その地はイスラム勢力との最前線であり、建造された数多くの城にちなみカスティリャ王国と呼ばれた。

一方イベリア東部はフランク王国のカール大帝がパンプロナからバルセロナに至るスペイン辺境領を打ち立てるなどキリスト教徒の支配が続いたが、

フランク帝国の瓦解とともにこれらも自立し、パンプロナを中心としたナバラ王国のサンチョ大王は

一時北部スペインのキリスト教国(ナバラ、カスティリャ、レオン、カタロニア)全土を支配して強勢を誇るが、大王の死後やはりこれらも自立、

さらに大王の庶子ラミロ1世の手で新王国・アラゴン王国が成立した。

このようにレコンキスタ初期のキリスト教諸国は分裂にあえぎ、イスラム勢力に対し組織的な抵抗が出来ずにいた。

11世紀になり南部では後ウマイヤ朝が滅亡すると、イベリア南部は多数のイスラム太守(タイファ)らが割拠することになった。

これを好機と捉えたのがカスティリャ王アルフォンソ6世で、彼は兄サンチョ2世の死後彼の統治するカスティリャと自身のレオンを統合し、

全ヒスパニア皇帝」を自称、トレドを攻略するなど活発な対ムスリム戦線を構築した。

これに危機感を覚えたタイファ諸国はモロッコに勃興したムラービト朝に支援を仰ぎ、

その君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンはこれを受け大軍を引き連れイベリアに上陸、

アルフォンソに大勝してカスティリャを退けると、彼は南部スペインの全域を支配下に置くに至った。

この攻勢によく抵抗したのがバレンシアの領主エル・シッドである。

12世紀なるとポルトガルが王国として正式に独立を果たす(m2twの時点では正式には伯爵領)。

ポルトガルは第2回十字軍の協力でリスボンを攻略すると、13世紀にはここに首都を定め、

同世紀末には南部のファロ市の陥落をもって一足先にレコンキスタを完了する。

13世紀になりキリスト教徒はようやくイスラム勢力に効果的な反撃を開始することになった。

1212年にカスティリャ王アルフォンソ8世率いるイベリア連合軍はラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝に快勝、

この戦いはレコンキスタの流れのターニングポイントとして記憶され、

この後レオン王国はカスティリャに再吸収・統合され、以後二度と分離することはなかった。

またアラゴン王国は12世紀にカタロニアとの連合を果たし(アラゴン連合王国)、13世紀にはハイメ1世征服王の下バレンシアを攻略、

さらに「シチリアの晩禱」事件に介入しシチリア島をはじめ地中海各地に勢力を伸ばした。

14世紀にペストの流行などで一時停滞していたが、15世紀にカスティリャとアラゴンがスペイン王国として統合されると再開、

イスラム教国・ナスル朝は1492年の首都グラナダ陥落をもって滅亡、ここにレコンキスタが完了した

しかし完了後のスペインでは、カスティリャ女王イザベルが厳格なカトリックであったこともあり、

大規模な異端審問が実施され、ユダヤ教徒やイスラム教徒は国外追放に遭うなどしてイベリアからほぼ一掃された。

レコンキスタは西欧諸国にとっては、バルト海と並び「近場の」十字軍であり、多くの国の王侯貴族が参加したことでも知られる。

ヴァランガー

varangian guard.jpg

ヴァランガーもしくはヴァリャーギとは東スラヴ人が南ロシアに進出したゲルマン系(ヴァイキング)の一派を指して呼んだ呼称。

転じて彼らがロシアの支配者となると中世ロシア国家(キエフ・ルーシ)を大まかに指すようにもなる。

このヴァイキングとはスウェーデン系と解釈されることが主流だが、諸説が存在しておりはっきりしない点が多い。

最初スラヴ人に招かれてリューリク率いるヴァリャーグはノヴゴロドを、後を継いだ弟のオレーグがキエフを掌握し、

ビザンティンとの抗争に敗北した後は交易に従事、「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる東欧の大交通網を整備するに至った。

「ルーシ」はこのヴァランガーを構成する一部族であったとされ、リューリクに率いられた一団がこの部族出身であったらしく、

キエフ公国が9世紀に成立するとその国の正式な国号として定着した。

言うまでもなく今日の国名「ロシア」の語源である。

ビザンティン帝国では東欧に住み着いたものだけではなく、ゲルマン系を一くくりに「ヴァランガー」と呼んでいたようである。

そのためヴァランガー近衛兵には東欧のゲルマン人は少数であり、大半は西欧出身者である。

カトリック

要は現代のキリスト教、基督教とも書く。

自らが普遍的な存在であると自負しているため「カトリック(普遍的な)」を名乗る。

唯一神+配下の天使を信仰し、この時代は神の代理人として教皇が存在した。

基本的にキリスト教に結び付けられる(こじつけでも)は何でも結び付けられてうまい事人々の思想に入り込んでいたのだが、

どうしても相容れないもの(イスラム、錬金術、地動説etc)はスルーされるか排斥されていた。

その地方の領主や、教会の教主などの裁量でそのスタンスはしばしば変化したのだが…

それは何処でも同じか。

大シスマが起こり、東方正教会との分離が起こったのが1054年。どちらも根を同じくするキリスト教であり、様々な特色を持ちながら

互いに微妙な距離感を置いて、21世紀の現在まで教義を異にすることになる。

大シスマによる東西教会の分裂とはいっても、完全に絶縁した訳ではなく一部では手を取り合っていたりするなど、事情は簡単な物ではない。

また、マルティン・ルターが提唱したプロテスタントは1517年以降。

本ゲームではルターはユニーク従者としては現れるが、プロテスタントが発生することは無い。

大シスマ

中世において二回あった、キリスト教の分裂。

一つ目はカトリックと東方正教の分離(1054年)を生み、二つ目はカトリックとプロテスタント(14世紀末)を生んだ。

一回目の大シスマは、ローマ教会とコンスタンディヌーボリ総教主の相互破門によるものであり、これにて東と西とでキリスト教会に色分けがなされた。

色々あったのだが、要は教会内での権力争いから来るものである。しかも流血沙汰に発展するようなことになったわけではなく

その後すぐ融和の試みは為されたようだ。が、欠けた茶碗は元には戻らず。

二回目の大シスマは、即座に分裂が起こったわけではなく、教皇のアヴィニョン捕囚からの復帰により

アヴィニョン派ローマ派が発生したのが端緒。

その後の軋轢が続き、統合し切れなかったカトリックが産み落としたのがルター提唱のプロテスタントである。

ちなみにシスマ(Schism)とはラテン語で「分裂」の意味。

中世の歴代ローマ教皇

史実での、m2twの期間(1080〜1530年)におけるローマ教皇。

括弧内は在位期間、○は正統とされる教皇、●は対立教皇とされる。

基本的にコンクラーべ(教皇選挙)により投票選出だが、時期により選挙の仕組みがやや異なる。

また例外的にコンクラーべを経ない教皇もいた。

教皇の権力としては、「教皇庁領」と言うよりも「教会」と言う建物に対しての概念が強い。その為カトリック教国は実質的に全て支配下。

まぁそのせいで諸王侯貴族との対立が(土地の教会へ寄進などにかかる税の行方などで)発生したのだが。

大体教皇になったら寿命まで務めるのが慣例、暗殺と思われる幕引きは意外に少ない。

対立教皇は、ほぼ追放とか獄死とかの悲惨な最期を迎えている。

しかし神聖ローマと教皇庁の仲の悪さは異常…何回破門されているのか。

これには神聖ローマの国のシステム(教皇が認め無いと神聖ローマの後継が認められない)にも問題があったが。

因みに初代ローマ教皇はペトロ、西暦30年ごろにいたと言う記録。

現在は267代目とされるフランシスコ(2013〜)。

歴史的出来事赤字で注釈を付ける。

破門関連には青字で注釈を付けているが、ここでの破門

「当時の勢力の指導者」に対する破門であり、代替わりした場合は大体破門を解かれている。

1080年〜

○グレゴリウス7世 (1073-1085)トスカーナ出身。ハインリヒ帝と対立。カノッサの屈辱

●クレメンス3世 (1080、1084-1100)パルマ出身。ハインリヒ帝擁立の対立教皇。

○ウィクトル3世 (1086-1087)ベネヴェント公国出身、上のクレメンス3世を破門。やる気の無い教皇。

○ウルバヌス2世 (1088-1099)フランス出身。第一回十字軍提唱者。フランスのフィリップ一世を破門

12世紀

○パスカリス2世 (1099-1118) トスカーナ出身。ホスピタル騎士団設立承認。

●テオドリクス (1100-1101) クレメンス3世の後継。すぐ投獄された。

●アルベルトゥス (1101) 同上、すぐ投獄された。

●シルウェステル4世 (1105-1111)同上、すぐ追放された。

○ゲラシウス2世 (1118-1119)ガエータ(イタリア)出身。対立教皇に敗北しフランスに追放された。

●グレゴリウス8世 (1118-1121)フランス出身。ハインリヒ5世が擁立、後に掌を返される。

○カリストゥス2世 (1119-1124)神聖ローマ出身。ハインリヒ5世と和睦。

○ホノリウス2世 (1124-1130)イモラ(イタリア)出身。テンプル騎士団を承認

●ケレスティヌス2世 (1124) 貴族同士の争いで発生した対立教皇。派閥争いによる心労死。

○インノケンティウス2世 (1130-1143) ローマ出身。枢機卿団の内紛に遭い、神聖ローマを味方に付ける。シチリア王国の成立を認める

●アナクレトゥス2世 (1130-1138)最初は派閥争いで有利だったが、軍事力で押され傍流に。

●ウィクトル4世 (1138)上記アナクレトゥスの後継、直ぐに追放される。

○ケレスティヌス2世 (1143-1144)チッタ・ディ・カステッロ(イタリア)出身。半年で亡くなった。

○ルキウス2世 (1144-1145)ボローニャ出身。反乱軍を自ら軍を率いて攻め、傷を負って死。

○エウゲニウス3世 (1145-1153~)ローマ出身。第二回十字軍を提唱し大失敗。

○アナスタシウス4世 (1153-1154)ローマ出身。教会の修復などに尽力したが老齢の為短命。

○ハドリアヌス4世 (1154-1159)イングランド出身。英国のアイルランド攻めを許可。神聖ローマ(赤髭王)と対立。

○アレクサンデル3世 (1159-1181) 神聖ローマ出身。かなりの長命で敵も多かった。

●ウィクトル4世 (1159-1164) 赤髭王が擁立した。

●パスカリス3世 (1164-1168)赤髭王の擁立その二。故カール大帝を列聖した。

●カリストゥス3世 (1168-1178) 赤髭王の手先三人目。対ロンバルディア同盟で神聖ローマの旗色が悪くなった為捨てられる。

●インノケンティウス3世 (1179-1180)四人目。同様に見捨てられる。

○ルキウス3世 (1181-1185)ルッカ(イタリア)出身。カタリ派を破門した。

○ウルバヌス3世 (1185-1187)ミラノ共和国出身。赤髭王の息子と相当仲が悪く、破門しようとした直前に没。

○グレゴリウス8世 (1187)ベネヴェント(イタリア)出身。第三回十字軍を提唱。

○クレメンス3世 (1187-1191)ローマ出身。神聖ローマと一時和睦したが後に対立。北方十字軍を提唱

○ケレスティヌス3世 (1191-1198)ローマ出身。85歳と言う高齢で即位、神聖ローマを破門

13世紀

○インノケンティウス3世 (1198-1216)ローマ出身。第四回十字軍を提唱し失敗。アルビジョア十字軍も派遣。レコンキスタも後援した。

○ホノリウス3世 (1216-1227)ローマ出身。第五・六回十字軍を提唱したが芳しくなかった。神聖ローマを破門

○グレゴリウス9世 (1227-1241)ローマ出身。法整備を行う。北方十字軍提唱、ハンガリーを破門

○ケレスティヌス4世 (1241)ミラノ共和国出身。16日天下。

○インノケンティウス4世 (1243-1254)マナローラ(イタリア)出身。神聖ローマを破門

○アレクサンデル4世 (1254-1261)イェンネ(イタリア)出身。東方正教との融和を図る。

○ウルバヌス4世 (1261-1264)フランス出身。神聖ローマとの戦いで死亡。

○クレメンス4世 (1265-1268)フランス出身。あだ名はデブ。神聖ローマに大勝利

○グレゴリウス10世 (1271-1276)神聖ローマ出身。コンクラーヴェを現在に近い形に改良する。

○インノケンティウス5世 (1276)サヴォイア伯国出身。東方正教との関係を危うくする。

○ハドリアヌス5世 (1276)ジェノバ共和国出身。強欲であったとか。

○ヨハネス21世 (1276-1277)史上唯一のポルトガル出身。次期教皇のニコラウスの傀儡。

○ニコラウス3世 (1277-1280)ローマ出身。学問好きの先代と違い、強力な政治家であった。

○マルティヌス4世 (1281-1285)フランス出身。シチリア王国の傀儡であり、要らぬ戦争を引き起こす。

○ホノリウス4世 (1285-1287)ローマ出身。シチリア王国を支配したアラゴン王国の傀儡。

○ニコラウス4世 (1288-1292)リシアーノ(教皇庁領)出身。平和的性格の為、枢機卿団を増長させる。

○ケレスティヌス5世 (1294)シチリア王国出身。傑物であるが権力を嫌い、存命中に退位した珍しい人物。

14世紀

○ボニファティウス8世 (1294-1303)神聖ローマ出身。政策でフランスと折り合わず、破門。「憤死」した人物。

○ベネディクトゥス11世 (1303-1304)神聖ローマ出身。敵対勢力(フランス?)に毒殺された疑いがある。

○クレメンス5世 (1305-1314)フランス出身。アヴィニョンに捕囚されフランスの傀儡。テンプル騎士団を異端認定。

○ヨハネス22世 (1316-1334)フランス出身、支配下におかれてなお強力な政治力を発揮。魔女狩りを行う。

●ニコラウス5世 (1328-1330)神聖ローマ擁立最後の対立教皇。ローマに滞在したがアヴィニョンに追われる。

○ベネディクトゥス12世 (1334-1342)フランス出身。厳格でストイックな性格。神聖ローマの教皇庁からの独立論を唱える。

○クレメンス6世 (1342-1352)フランス出身。女好きで浪費家。ペスト禍の対策に奔走。

○インノケンティウス6世 (1352-1362)フランス出身。元法律家。

○ウルバヌス5世 (1362-1370)フランス出身。一度はローマに戻ったがアヴィニョンが懐かしくて引き返す。

○グレゴリウス11世 (1370-1378)フランス出身。フィレンツェを破門。フランス百年戦争の不穏さもありローマに帰還

○ウルバヌス6世 (1378-1389)ナポリ王国出身。枢機卿ではなく大司教の身分から教皇になった。

●クレメンス7世 (1378-1394)フランスに擁立され、様々な国を巻き込んで教会大分裂を起こした。

15世紀

○ボニファティウス9世 (1389-1404)ナポリ王国出身。教皇庁の強化に努める。

●ベネディクトゥス13世 (1394-1417)対立組のアヴィニョン派であり、フランスに攻撃される。

○インノケンティウス7世 (1404-1406)ナポリ王国出身。反乱軍に追い回される。

○グレゴリウス12世 (1406-1415)ヴェネチア共和国出身。枢機卿が大分裂を収束しようとしたが無視。さらなる混乱を引き起こす。

●アレクサンデル5世 (1409-1410)すぐに毒殺されたらしい。

●ヨハネス23世 (1410-1415)上記2人と同時に教皇を自称していた、三すくみ時代の一人。

○マルティヌス5世 (1417-1431)ローマ出身。このころの教皇はメディチ家との結びつきが強い。

●クレメンス8世 (1423-1429)枢機卿団の数人が擁立。が、かなり権威は弱かったようである。

●ベネディクトゥス14世 (1424-1429)殆ど存在感の無かった対立教皇…

●ベネディクトゥス14世 (1430-1437)たまたま同名。すぐに投獄された。

○エウゲニウス4世 (1431-1447)ヴェネチア共和国出身。メディチ家と不仲。多くの教会を補修。

●フェリクス5世 (1439-1449)サヴォイア公国の出身で、歴代の対立教皇の中では中々の立ち回り上手。

○ニコラウス5世 (1447-1455)ジェノヴァ共和国出身。ローマの復興・整備に尽力する。

○カリストゥス3世 (1455-1458)バレンシア王国出身。スペイン贔屓。ジャンヌ・ダルクの死後の無罪を認める

○ピウス2世 (1458-1464)シエーナ共和国出身。死の直前に十字軍を提唱しようとして未遂に終わる。

○パウルス2世 (1464-1471)ヴェネチア共和国出身。フス派と対立。教会の体質改善を図ったが中途で挫折。

○シクストゥス4世 (1471-1484)ジェノヴァ共和国出身。文芸発展に尽くす。スペイン異端審問の引金を引く。

○インノケンティウス8世 (1484-1492)ジェノヴァ共和国出身。異端審問・魔女狩りを活発化させる。

16世紀

○アレクサンデル6世 (1492-1503)バレンシア王国出身。対内的には強力であったが、民には全く注意を払わなかった。

○ピウス3世 (1503)シエーナ共和国出身。前教皇の引き起こした混乱を収束させる期待をされたが半月で他界。

○ユリウス2世 (1503-1513)ジェノヴァ共和国出身。芸術を支援し、強力な政治家でもあった。

○レオ10世 (1513-1521)フィレンツェ共和国出身。メディチ家の人物。芸術好きで政治的に強く、プロテスタント創立のルターを大破門

○ハドリアヌス6世 (1522-1523)神聖ローマ出身。芸術に現を抜かさないリアリスト。毒殺される。

○クレメンス7世 (1523-1534)フィレンツェ共和国出身。メディチ家の人物。芸術を支援するが、おりしも世界的な混乱に翻弄され多忙な人生を送る。

東方正教

ギリシャ正教とかオーソドックス(Orthdox)とも呼ばれる。

自らが正統な存在であると自負しているため「オーソドックス(正統な)」を名乗る。

八端十字架(ロシアの国旗にもある)を用い、イコン(肖像画)などの作製が特徴。

教義的にはカトリックと似たところがあるが、m2twでは教皇は居ない。

カトリック・イスラムからは異教扱いされる。

ジハードや十字軍を起こせず、比較的ワリを食っている宗派。

本当はコンスタンティノープルに「世界総大主教」という聖界を統括する存在がいるのだが

「ビザンチン・ハーモニー」と呼ばれる宗教体制なので教皇みたいにうるさくない。

イスラム教

言わずとしれた中東勢力の信仰宗教。

モンゴル・ティムールもイスラム信仰。

中世ではカトリックと激しく戦った信仰であるが、すべてに於いて敵対的だった訳ではない。

偶像崇拝をかなり厳格に禁じている為、指導者にはお面を付けて個人の人格を封じている場合が多い。

この考えから、カトリックと比べ宗教的遺物が少ないのが特徴。

まぁ、モスク何かが発達しているのは矛盾しているのかもしれないが…

酩酊するのは悪い事と断じられているのに酒場が発達したり、ややいい加減な所はどの宗教でも同じである。

ユダヤ教

唯一神ヤハウェを信仰する、世界最古の宗教(土着信仰などを除く)。

その伝道師がモーセであり、紀元前のファラオの時代辺りからイスラエルを中心に広まった。

キリスト教が台頭し始めると迫害の対象になり、中世においては相当数が減った。

が、今なお生き延びる宗教の一つ。

異端信仰

どの時代でも沸く、「俺が神だ!」「世界は滅びる、私の言う事を聞けば助かる」的な信仰。

カルトとも。

または、正統な教義から外れて独自解釈を立ち上げてしまった者も異端と呼ばれる。

同じカトリックやイスラームでも○○派とかあるように、主に聖書の文言の解釈の違いでこの様な事態が起こる。

カトリックではカタリ派が異端認定を受けたことで有名。

イスラームで主流だったのはスンナ派シーア派も当時から存在していたが対立による抗争に負け、(現在も)マイノリティである。ただし異端認定されてはいない。

キリスト教で有名な異端の流れに「苦行」を旨とする集団がある。自らを鞭打つのはよくあること。

極端なものになると生殖活動そのものを忌み嫌い生殖器を切除したりする。なぜなら人間は罪に塗れた存在であり、子孫を残すことは罪に塗れた存在を残すことだからである。

カタリ派などではこれが逆転し、子供を残すのは罪だが性行為は構わないとされ、乱交に及んだ者たちもいた、と言われる。

本人の弁舌次第では一大宗派に成長する事もしばしばだが、この時代ではカトリック及び敬虔なムスリム達に排斥され、地方の村などで細々とやっていくしかなかった。

異端信仰を広める異端者は自然発生する他、異端が濃い地域にいる聖職者や、異端化し易い特徴を持ってしまった聖職者が自然転換してしまう事がある。

異端者の糾弾に失敗した時も、一定確率で異端側に引き込まれてしまう。

異端審問

異端審問が盛んだったことで知られるのは、中世全般ももちろん、ルネサンス以降も対抗宗教改革に燃えるスペインなどで盛んであった。

異端審問や異端審問官の様子を幾つかの映画で見ることができる。

「薔薇の名前」では主人公が部屋に他の修道士が訪れた際に慌てて天体観測用具を隠す場面がある。

また、この作品は作品全体が異端について取り扱っており、登場する異端審問官ベルナール・ギーはまさにm2twの異端審問官のイメージである。

「宮廷画家ゴヤは見た」は18世紀を描いた作品だが、スペインの反動的な異端審問が具体的に描かれている。

例えば小便をするときにペニスを隠すのは割礼したユダヤ人だからであり異端であるとか、食事の際豚を食べないのはユダヤ人だからであるとか……

魔女

唯一、m2twで非自然的能力を使用するユニット。

(おそらくは手品の類だろうが)

異端者と同じく異端を広め、ターン開始時に隣接していた将軍に悪影響を与える。

神父で糾弾も出来るが、こちらは失敗時には異端化では無く魔術で殺害される。

その点では異端者より手心があるのか…異端を広めるスピードも、異端者ほど激烈ではない。

偶に自ユニットでは到達不可能なマスに現れて、糾弾したくても出来ない状態になる。

こうなったら寿命を待つしかない…

聖書

Bible。新約聖書はTestament、旧約聖書はBiblical Aramaic。

キリスト教…新約聖書・旧約聖書共に「正典」(最も教義に近い)扱い。

ユダヤ教…旧約聖書が「正典」。ただしキリスト教の旧約聖書とは本の名前も違い、若干内容も異なる。

イスラム教…新約・旧約共にコーランに次ぐ「正典」。ただし本の名前は違い、省略されている節も多い。

旧約聖書は天地創造(カインとアベル兄弟・ノアの箱舟・アブラハム・ソドムとゴモラ)に続き、

モーセのエジプト脱出・十戒伝授、その後に歴史記述(ヨシュア・サムソン・バビロン捕囚)、

知恵文学(ヨブ記など)、詩篇(ダビデやソロモンの作品群)で編成される。

要はモーセが出てくる巻。

新約聖書はイエスの死と復活の記録「福音書」、イエス死後の教会の歴史記述「歴史書」、○○の手紙をまとめた「公同書簡」などで構成される。

大体はキリストとその弟子の話。

両方とも誰が書いたか、いつまとまったか、と言う定義は難しい。

編纂は勿論モーセやイエスが行った訳ではない。彼等の弟子や、信徒達が纏めたものである。

図書館に行けば大体読める。現在日本で流通しているのは旧約・新約セットで翻訳された「新共同訳聖書」と呼ばれる物。

購入も通販で行えるがそこそこのお値段。ページ数は千を超える。

コーラン

イスラム教の正典、Quran。クルアーンとも。

ムハンマドが青年期に、瞑想中に授かった神の啓示を始め、その後に授かった全ての啓示の口伝を時の指導者が纏めたもの。

第一の啓示は610年に授けられ、650年頃に第一冊目のクルアーンが発行された。

因みに第一の啓示を授けたのは大天使ガブリエル(アラビア語ではジブリール)、

メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたムハンマドは突如金縛りに襲われた。
そのとき天から大天使ジブリールが現れ、「誦め(よめ)」と言った。
ムハンマドが「何を誦めと言うのですか」と苦しみながら尋ねたところ、
ジブリールはフッと消えていった。
wikipedia「コーラン」より抜粋

ジブリールやその他の神の使いは度々彼に啓示を授け、それが纏められたのがクルアーンである。

また、これとは別にムハンマド自身の格言的なものを纏めた「ハジス」と言うものも存在する。

クルアーンを直に読みたいなら取り寄せるか、ネットで検索してみよう。

岩波文庫から上中下巻の3冊セットが比較的安価で購入できる。一巻大体300ページ。

ネットで公開されている和訳のクルアーンも存在する。

聖書のように共同で翻訳した物では無い為、多分に主義主観が入るのはご了承あれ。

自然崇拝

アステカの太陽神信仰や、バルト海近辺の多神信仰、ケルトの多神教、シャーマニズム、アニミズムなど一括り。

自然崇拝を布教できるユニットはおらず、地域によって最初は数割を占めていたりもするか、消滅して行く宗派。

時には異端認定も受けていた(リトアニアなど)

唯一アステカの拠点の建物「ピラミッド型寺院」だけは強力な自然崇拝改宗効果を発揮する。

この建物は、他の勢力特有の建物の様に「占拠」しても手に入れることが出来ない。

鎚と金床

鉄床戦術(かなとこせんじゅつ、鎚と鉄床戦術とも)とは、複数兵科を使った戦術の一つ。
軍を二つの部隊に分け、一方が敵をひきつけているうちにもう一方が背後や側面に回りこみ本隊を包囲、挟撃する戦術。
 
その役目から敵を引き付ける側は低機動で耐久力のある兵科が選ばれ、背面に回りこむ部隊は機動力の高い兵科が選ばれる。
半固定の部隊に敵を引き付け、そこに機動力のある部隊が打ち付ける様が鍛冶屋の槌と金床に似ていることからこう呼ばれる。
一般的にこの戦術を行う側は十分に機動力のある部隊が必要であり、諸兵科連合がうまく機能していることが必要である。
 
古代ギリシャやペルシャで考案され盛んに行われた。
古代においては重装歩兵と騎兵(特に重装騎兵)を使う例が非常に多かった。
まず重装歩兵が隊列(ファランクス)を組んで隊列を組んだ敵の歩兵、特に重装歩兵と突撃し、白兵戦に移行するとともに敵の進行をその場に捕縛する。
その間に味方の騎兵が敵の隊列の後方、ないし側面まで迂回しそこから敵に突撃し、敵の隊列を分断、混乱させ敵部隊を壊滅させる。
特にファランクスは前方の攻撃に対しては堅牢な隊形ではあったが、
逆に言うとそれ故に側面、後方からの攻撃を受けた場合は機敏に対応する事は難しく、敵のファランクスを打ち破るのに効果的な戦術だった。
 
これはアレクサンドロス3世が好んで使った戦術であり、この戦術を以って彼は幾度もペルシア軍を破った。
また、彼の後継者もこの戦術を受け継ぎ、例えばエウメネスがパラエタケネで、デメトリオスがガザにて用いた。
 
(以上、Wikipedia「鉄床戦術」より転載)

m2twで最も基本となる戦術。

歩兵で敵を受け止め、騎兵で背後から襲いかかればイチコロ。

ただし敵にも騎兵が居ると、妨害されるので、上手く捌くスキルが必要。

将軍部隊まで挟み撃ちに参加してしまうと、歩兵の士気が持たなかったりする場合もあるので注意。

逆に将軍が付いていないと騎兵の方が逃げ出す事もある、状況に応じて将軍をどちらの部隊に分けるかは考えよう。

ジェリコ

ヘブライ聖書に登場する都市の名前、エリコ・イェリコとも。

死海付近にある、m2twではガザの辺り。

モーセの弟子ヨシュアがこの都市に入ろうとしたが、民に堅く門を閉ざされてしまった。

主からのインスピレーションを受けたヨシュアはその通り、契約の箱を担がせたイスラエルの民に7日間ぶっ通しで城壁の周りを練り歩かせ、

とどめの一撃として角笛を吹いた。

見事城壁は跡形も無く崩れ去ってしまったとか。

城壁破壊が成功した際によく軍師に引き合いとして出される聖書の一節である。

ハプスブルグ家

Habsburg.jpeg

名門貴族の一。

その血の始まりは不明だが、多くの国家にその血脈を持つ者を婚姻させ、一大勢力を築いた。

m2twの時代では、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国

トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国などの家系に入り込み、時には君主として君臨した。

中世〜近世では最も名の知られた貴族一門である。

家紋は双頭の鷲

13世紀頃にスイスで誕生したと言われ、その後は各地を転戦しつつ、領土紛争に明け暮れた。

その後は、中世の婚姻制度をうまく利用し、実権を握れる様なポジションに一族を付けるよう策謀を張り巡らせ、権力を拡大した。

ランツクネヒト創設などで名のしれたカール5世もこの一門である。

カール5世はスペインとの同君連合体制を組み(スペイン王カルロス1世)、文字通り「日の沈まない帝国」の支配者となった。

例の引用文のとおり、彼自身はドイツ=神聖ローマ皇帝としてのアイデンティティよりスペイン王としてのアイデンティティのほうが強かったようだが。

現在スイスにはハプスブルク家発祥の土地「ハプスブルク城」が残っている。

ヴィルヘルム(ウィリアム)・テルの悪代官の派遣元がハプスブルク家。

家訓は「戦争は他家に任せておけ。幸運なるオーストリア(=ハプスブルク家)よ、汝は結婚せよ」。

実際、ハプスブルク家は政略結婚によって権勢を高めていった。

メディチ家

Medici.jpg

イタリア・フィレンツェの名家。

金地に赤丸が家の紋章。13世紀頃から存在が知られている。

初期は薬問屋を営み、Medicine(薬)の語源になったらしい。

むしろ有名になるのはその後、14世紀に銀行を始めてから。

フィレンツェを根城にヴェネツィア・ローマなどに影響力を持ち、実質的に17世紀頃までフィレンツェ共和国を支配した商人一家。

16世紀、フィレンツェ共和国が名を変えたトスカーナ大公国はまさにメディチ家の国であった。

ルネサンス期にイタリアの芸術家のパトロンとして活動したのは有名。ルネサンスの立役者。

ハプスブルク家の様に要人に自家の人材を入り込ませ、支配権の拡大も狙った。

メディチ家の息の掛かった教皇や、メディチ家の人物が教皇になった例も。

18世紀には零落し、後継が居なくて断絶。

チューダー家

nolink

イングランド王国の名家、および1485~1603年のチューダー王朝を築いた家系でもある。

古くはその根をウェールズ君主の家系に持ち、当初は下級貴族であったものの政治的策略により、また1485年のボズワースの戦いでの武功により

百年戦争での勝利を収め、ランカスター派(赤バラの紋章を掲げた)の長としてイングランドの統治権を手に入れた。

このヘンリー・テューダーことヘンリー7世の代からテューダー朝は始まり、さらには1541年にアイルランド王の地位もテューダー家が掌握、イングランド・アイルランド同君連合を形成する。

王朝の終末は、かの有名なエリザベス一世が子を為さないまま死し、スコットランド王家であるスチュワート朝に交代する。

中世後期のイングランドを良く治めた名家であり、百年戦争からの国力回復を絶対王政を以って推し進めた。

とは言え、その統治には議会・宗教や貨幣価値のコントロール、周辺諸地域との軋轢もありやはり一筋縄では行かなかったようだ。

 

ホーエンシュタウフェン家

Hohenstaufen.png

神聖ローマの名家、神聖ローマの王侯に多い。

フリードリヒ一世(赤髭王)やその息子である後継ハインリヒ6世など、中世盛期における神聖ローマ皇帝に多々。

またシチリア王国の君主としても人材を輩出している。

紋章は統一されてる訳では無いが、黄金や緋色の地に黒い鷲。

名前はそのまま城のあるシュタウフェンから。

12〜13世紀においては神聖ローマはほぼホーエンシュタウフェン家(朝)。

神聖ローマの実権を握り、イタリアに進軍。

シチリアの支配を礎に勢力拡大を目論むが、逆に神聖ローマの本領の方が疎かになった。

そのせいもあってかイタリア都市同盟のロンバルディア同盟に大敗を喫する。

しかも教皇に散々破門されている。

だが、存在感は強く、第三回以降の十字軍での中核を担った。

ブルボン家

Bourbon.jpg

フランスの名家、14世紀の初め頃より活躍した一族。

百年戦争に置いてはフランス王家の外戚として、権力の周囲に位置する。

ヘイスティングスの戦いで敵方として参戦するジャン将軍も、ブルボン家。

彼は史実では捕えられロンドン送りとなるが…

後にも、多くの歴史に名を残す公を輩出している(シャルル突進公など)が王権に位置した事はほぼ皆無。

17世紀初頭には姿を消した。

彼らが有名であるのは、その近親婚による精神疾患持ちの人物が多々いた事。

14世紀の半ば百年戦争の折、フランス王シャルル五世の妃ジャンヌはブルボン家の出身であったが

30歳を過ぎたころから錯乱の症状が始まっている。

これは彼女に近い兄弟親族にも多く、近親婚が原因であると考えられている。

フッガー家

Fugger.jpg

神聖ローマの名門であり、15世紀頃からメディチ家同様金融業などで伸長した名門。

アウクスブルグ(現ミュンヘンの近く、ニュルンベルクの南)にて鉱山や金融を営みドイツの貨幣経済の原動力を担った。

神聖ローマ領はノイゾール銅山やシレジア金山を始め多くの鉄・スズ・水銀・石炭・銀などの鉱山を有し、鉱山経営は大きな国家収入の支えであった。

しかし、ハプスブルグ家に不払いをだされた事で大打撃、更に新世界(インカ帝国)から大量の金銀が

欧州に流れ込んだことで貴金属の価値も大暴落。

16世紀初頭には何百万フローリンと言う資産を抱えていたが、没落して行く事になる。

現在も一応貴族として存在しているらしいです。

ミッサーリャ家

nolink

イタリア北部、ロンバルディアにあった鎧鍛冶の名工。

元はネグローニという姓であったが、初代の生まれ故郷の地名からミッサーリャの名前で呼ばれるようになった。

15世紀中頃にミラノに初代が移り住んだと思われる。

2代目のトマーソの代に優れた甲冑製造で名を馳せ、

彼によって「イタリア式甲冑」はヨーロッパ全土の甲冑の中でも不動の地位を得ることになった。

ミッサーリャ家によって開発された甲冑は、着用者の全身を覆う完全な一式の板金鎧であり、

その構造からカプ・ア・ピエ(cap a pie, 頭から足までの意) と呼ばれ、機能性が追求されたつくりになっていた。

トマーソの貢献により一族はミラノ公より免税の待遇を受け、

さらに3代目となる弟アントニオは、1470年に大工房を構えたばかりか、鉱山を所有するまでになった。

15-16世紀を通じてミッサーリャ家の甲冑は、イタリアはおろかヨーロッパ中の王侯御用達となり、

戦場では敵味方がまったく同じようなデザインのイタリア式甲冑で戦闘に臨むといった事態も珍しくはなかった程だという。

一方、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、歴代皇帝の中でも1,2を争うほどの甲冑マニアであり、

イタリア式に対抗するため、折からドイツで流行りだしたゴシック式甲冑の改良に勤しんだ。

マクシミリアンは鉱物資源と水利に恵まれたインスブルック市に工房を設け、

甲冑師コンラート・ゾイゼンホーファーの協力により、より機能性に優れた甲冑の開発に成功した。

これがマクシミリアン式鎧と後に呼ばれる甲冑である。

ネグローニ家

同上。

オスマン帝国

Ottoman empire.jpg

Ottoman empire、1281年、オスマン一世により建国されたトルコ大帝国。

1922年に滅亡、多くの国に分裂する。

世界でも類を見ない長寿国家。

因みにこれより以前はセルジューク朝トルコ、1030年頃から続いていた。

セルジューク朝も黒海・カスピ海の南方一帯の広大な地域を版図に収めていたが、オスマン帝国は更に広く、

最大時には北アフリカ沿岸ほぼ全て(m2twではアルジェからアレクサンドリアまで)に加えバルカン半島・アナトリア半島

ナイル下流ほぼ全て、カスピ海からペルシア湾付近までを握っていた。

ゆうにm2twのMAP1/3は支配しようかと言う栄華っぷりであった。

オスマン歩兵とかイェニチェリだとかカプクルとかコンスタンティノープルの陥落(1453年)とかは全部オスマン帝国絡み。

モンゴル帝国

White_Sulde_of_the_Mongol_Empire.jpg

チンギス・ハン(チンギス・カン、チンギス・カアン、Činggis Qan、成吉思汗)が打ち立てた、モンゴルの遊牧民を統一し建てた帝国。

1206年が始まりと言われる。

13世紀末に面積は最高になり、ユーラシアの3/4を手中に収めた。

とは言え、流石にこの広さを皇帝(大ハーン)が収め切れるわけでは無く、必然的に「ウルス」と言う単位への地方分権化が進む。

13世紀末にはキエフやブカレスト、カエサリア、バグダッド位までは影響下に置かれるが、その後は後継者争いなどで瓦解してゆくのみであった。

16世紀までかけ、中国から中東にモンゴル帝国の欠片は細かく散って行き、17世紀にはやがて消滅した。

13世紀のモンゴル帝国を起因とする戦乱から解放されたのちの安寧をパクス=モンゴリカと呼ぶ。

ちなみに13世紀初頭m2twの世界に降臨する、モンゴルの勢力指導者はジャガタイ・後継者はオゴシン(ハーンザダ)となっている。

これはおそらくチンギス・ハンの次男チャガタイとその弟であり2代目モンゴル帝国であるオゴデイであると思われる。

チンギス・ハンは次期皇帝をオゴデイに指名していた、兄のチャガタイはこれに反することなく彼を助け、自身は与えられたウルス(チャガタイ・ハン国)の王として収まっていた。

彼らは13世紀初頭の「大西征」に参加し、東欧や小アジアを蹂躙している。

他の名有り将軍にはバヤン・アラダイ・ジェベ・スプタイ・バツ・オルダ・ベルケイ・クオ=カン・ヒュレギュ・キトブカが列する。

ジャガタイとオゴシンは無能だが、他の将軍はいずれも高い指揮・畏怖・忠誠を有する。

ベルケイのみ信心が高く、他は0とか1とか程度の信心。

ティムール王朝

timurid_dynasty.jpg

1370年が成立年。

そのルーツはモンゴルのウルスの一つであるチャガタイ・ハン国

チンギス・ハンと同じ先祖を持つティムール(1336-1405)と言う零落貴族の子が後に大王朝を築く。

現在のイラン・イラクあたりが出発点。

最盛期にはシリア・アナトリアの一部まで領土を広げるが、モンゴル帝国ほどの広大な版図は得ていない。

モンゴル帝国は比較的初期の歴代皇帝にカリスマがあったが、ティムール朝は初代のティムールにしかカリスマが無かったため、分裂が早かったと言う。

モンゴル帝国との絡みであるが、前述の通りティムール朝はモンゴル帝国のウルスの一つが独立したような形であったため、軍事的な衝突はなかった。

(むしろ帝国の瓦解の過程で分裂したモンゴルの地方王権とも考えられる)

特徴的な戦象部隊であるが、ティムール王朝軍が戦象部隊を運用したと記録される資料は少ししか無い。

むしろインドで戦った時に敵方に戦象部隊が現れ、これに対する作戦を練ったとかの話の方が良く聞かれる。

その後戦利品として戦象を持ちかえったとあるから、ひょっとしてこれが戦象部隊の由縁かもしれない。

ティムール王朝の後継であるムガル帝国では戦象部隊が運用されていたようだが…

タタールのくびき

「軛(くびき)」とは馬車などにおいて動物が連結される部品の事。

タタールのくびきはモンゴルの支配・干渉下にあった13〜16世紀のロシアの苦難を表す言葉。

トランスオクシアナからヨーロッパやアラビアに侵入したモンゴルは略奪・破壊・上納要求・支配など、その暴虐っぷりは有名。

諸外国はこれに抗して戦線を築いたが、最も苛烈なのはロシアだったようである。

ノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーがタタールのくびきに抵抗した人物としては代表的。

百年戦争

1337-1453年。

中世におけるイングランドVSフランスの長期戦争。

実際にはスペインやらも巻き込んだ多国家間戦争だったのだが。

ジャンヌ・ダルクやベルトラン・デュ・ゲクラン、エドワード黒太子などが著名な登場人物。

1337年、当時イングランドの敵対国であったスコットランドの王を、フランスが匿ったのを理由にイングランドが宣戦布告。

これにより百年戦争が勃発、フランドル領の反乱を助けにしながら欧州大陸に上陸しフランス領土を蹂躙する。

フランスは海路を断ち兵糧攻めしようとするが、海軍戦にてイングランドに遅れを取る(1340年、スロイスの海戦)。

その後、イングランドはクレシーの戦い(1346年)でフランスを破り大きく歩を進めるが

一方のフランスも、反乱地域であったフランドルの平定に成功し内憂を除くことに成功する。

だがその直後にペストが流行、両軍とも一時剣を収めざるを得なくなる。

数年後、戦争再開。

1359年ポワティエの戦いにて、またもイングランド大勝。フランス王は捕らえられる。

その後はシャルル王太子が実質的にフランス王を務め、イングランドに対峙する。

イングランドはフランス領を蹂躙したが、フランスはひたすら守りに徹し、捕虜の王に対する身代金の為の税金などの名目で収益体制を強化。

また種々の外交手腕にて大陸でのイングランドの動きを封じてゆく。

ここで、舞台はスペインに移る。

王位争いに敗れたエンリケをフランスが、追い落としに成功したペドロ一世をイングランドが支援する形でスペインにて代理戦争が勃発。

フランスはベルトラン・デュ・ゲクランの働きもあり、緒戦に勝利。またこの時にフランス国内を荒らし回っていた

傭兵崩れの盗賊を雇って使い潰し、イベリア半島に置いてくる事に成功する。

これによりフランスは財政・治安でも改善を見せる。

しかし、その後のフランスは勢いを無くし、両者膠着状態。

宮廷内のいざこざや戦費調達に喘ぐ地方の反乱などで、満足に身動きが取れない。

1370年代ではフランスのラングドックでの農民反乱、またイングランドでも1380年代にワット・タイラーの乱と

両軍とも混乱の最中。フランスに関しては内紛が酷く対立の一派がイングランドと結ぼうとする始末。

そんな中で起こったのがアジャンクールの戦い(1415年)で、これにイングランドは大勝しイル=ド=フランスを掌握してゆく。

ここでフランスに救世主のジャンヌ・ダルクが出現、1429〜1431年にかけて彼女は活躍するが…

その後フランスは勢いを盛り返し、1453年には遂にノルマンディー・ボルドーを奪取。イングランドをブリテン島に完全に追い返すことに成功する。

最終的には、フランスの勝利と定義される。

しかし両軍とも大勝利・大敗北したわけではなくこれによりイングランドがブリテン島に封じ込められた
と言うのが正しいか。

武勇伝ではイングランドに分があるが、権謀術数ではフランスの方が概ね優越していた。

これはイングランドが、本拠地のブリテン島から海を渡ってきていた為の不利もあるかもしれないが…

イタリア戦争

15-16世紀にイタリアの覇権をめぐってヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ+スペイン)の間で繰り広げられた一連の抗争。

名前のとおり主戦場となったのは北イタリアである。

諸説はあるが1494年のフランス軍の侵入から1559年のカトー・カンブレジ条約締結までの期間とするのが一般的。

一口に「イタリア戦争」といってもこの間4次にわたって戦闘が断続的に続いた。

元来フランスは13世紀からイタリアへ影響力を行使しようと試みており、

カペー家の近親アンジュー伯家は一時ハンガリー、シチリア、プロヴァンスの君主を兼ねるなど強勢を誇ったが、

1443年までにシチリア、ナポリを中心とする南イタリア地域をスペイン(アラゴン王室トラスタマラ家)に奪われた。

加えて1519年にスペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世としてに即位すると、

イタリアへのアクセスだけでなく、地理的にフランスの両サイドにハプスブルク家が控えることになり

フランスの危機感は自然と高まった。

また折りしもフランスは百年戦争の終結、統一最大の障害であったブルゴーニュ公の排除によって君主権が強化され、

長年の戦争終結と集権化の完了により生じた余剰軍事力の消費という背景もあった。

1494年にフランス王シャルル8世がイタリア侵入を開始すると、破竹の勢いで進撃を続け

次王ルイ12世の代にはミラノ公国を占領した。

これに危機感を覚えた教皇レオ10世は神聖ローマ帝国と同盟しフランスを攻撃(第1次イタリア戦争)、

フランス軍は1525年2月24日のパヴィアの戦い(歴史上のバトル)でナポリ副王カルロ・デ・ラノイ率いるハプスブルク連合軍に敗北、

国王フランソワ1世は捕虜となるなど致命的な打撃を受けた(余談ながらこの戦いの日はカール5世の誕生日だった)。

しかしフランソワ1世は身代金を支払って釈放されるや、即座に再度戦闘の準備にかかり、

今度は教皇、ミラノ、ヴェネツィア、イングランドとコニャック同盟を結んでカール5世に対抗した(第2次イタリア戦争)。

この同盟に憤慨したカール5世はランツクネヒトを中心とする傭兵団を率いて教皇に報復、

傭兵によりローマ市は略奪の憂き目に遭った(ローマ略奪/サッコ・ディ・ローマ)。

これにより教皇が屈服すると、イタリア諸国はカールに服する姿勢をとった。

順調に見えたカールだったが今度は東方より新たな脅威が迫っていた。

スレイマン1世率いるオスマン帝国軍のウィーン包囲である(1529)。

また折からの宗教改革(1517)への対応にも追われることになり、カール5世と神聖ローマ帝国の疲弊は明らかであった。

ともあれここでもカールはイタリアでの優勢を保つことに成功する。

一方のフランソワは第3次イタリア戦争でも思うような成果が上がらず、

今度はオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を結ぶも(第4次イタリア戦争)やはり形勢が逆転することはなかった。

1544年のクレピーの和で休戦が取り決められ、1547年にはフランソワが死去する。

こうして1559年にカトー・カンブレジ条約が結ばれ、イタリア戦争は名実ともにここに終結した。

イタリア戦争はルネサンス最盛期のイタリアが舞台となったことで、ルネサンス文化が他国に伝播する契機となった。

一方で教皇を含むイタリア諸国の思惑が絡んだことで戦争が複雑化し、

戦争が終わってみるとイタリア本土は荒廃し、

イタリア半島の大部分が外国の勢力下(主にオーストリアとスペイン)に置かれるなど惨憺たる有様となった。

ちなみにこのときフランスにイタリア料理も流入し、それらは主に王室で食されていたが

フランス革命で王家が廃絶されると失業した料理人たちは市外で料理店を経営しはじめた。

これが現在の「フランス料理」の普及につながったとされる。

今日のフランス料理はその原型はイタリア料理にあったのである。

ワット・タイラーの乱

Flag_of_the_City_of_London.png.jpg

1381年、イングランドのカンタベリー付近で起きた農民反乱。農夫ワット・タイラーが首魁。

百年戦争による税の取り立て、またペスト流行による農奴制の強化により自由を奪われた農民の反乱。

精神的指導者に神父ジョン・ボールを頂き、彼の演説中の「アダムが耕し、イヴが紡いでいたとき、誰がジェントリであったか?」はあまりにも有名。

ジェントリは「地主」を意味し、要はあまりに重い税を課す統治者への反抗の意を述べた一句である。

一時はロンドンを占拠、王に農奴制の廃止を直訴する所まできたが、その場で首魁の
ワット・タイラーが

斬り殺され、群衆は軍隊に蹴散らされ、鎮圧された。

が、この後も農民の自由化の潮流は止まることはなく、次第に農民階層は力を持つようになってゆく。

14世紀に多くの人々の命を奪ったペストや飢饉により、農地を耕す人材が非常に貴重になっていたためである。

上の画像はロンドン市の市旗。

イングランドの守護聖人である聖ジョージ十字の左上に描かれた短剣は、

ロンドン市長ウィリアム・ウォルワースがワット・タイラーを殺害する際に使用した剣を意匠にしたものらしい。

ジャックリーの乱

1358年、フランス北東部で起きた農民反乱。Jacquerieとは農民の蔑称。

首魁ははっきりしないが、カールと言う人物らしい。

農民は破壊略奪の末、軍隊に鎮圧される。

やはりこれも行き過ぎた重税や体制への不満が元で起こったが、ワット・タイラーの乱とは異なり

農民以外の騎士階級なども反乱に加わっていたとか。

薔薇戦争

1455-1485年

中世におけるイングランドの内紛。

これによってイングランドは大いに疲弊したと言う…

百年戦争のフランスとの戦いにおいて、ヨークの貴族(白バラ)は主戦派、ランカスターの貴族(赤バラ)は和平派と意見が対立していた。

この意見の相違もあるが、とりあえず主戦派であるヨーク派が戦い、時の王である幼き王のヘンリー6世を捕らえ、王位を目前にロンドンへ向かう。

しかしここでランカスター派の援軍スコットランドが介入、周辺諸侯も巻き込んで泥沼の戦いが始まる…

最終的に、イングランドのリッチモンドの伯であるヘンリー・チューダーが戦争を収める。

こうしてノルマン朝・プランタジネット朝・ランカスター朝に続くチューダー朝が始まる。

ロンバルディア同盟

対神聖ローマの侵攻として、イタリア諸都市国家が設立した同盟。

神聖ローマ皇帝VSローマ教皇の対立図に、イタリア諸都市が教皇側に付いた格好。

無論時代が進むと、神聖ローマ側に付く都市も出てきた。

これによりもともと独立機運の高かったイタリア諸都市が独立都市国家として成長して行く事になる。

スペイン宗教裁判

モンティ・パイソンのスケッチ、とその台詞「まさかのときのスペイン宗教裁判!(NOBODY expects the Spanish Inquisition!)」でも有名…

Spanish Inquisition(英)、Inquisición española(西)は「スペイン異端審問」の訳も多い。

異端審問自体はm2twでもわかるとおり中世を通じて盛んに行われていたが、

15世紀以降スペインでは、教皇庁や教会主導ではないある種の国家事業としてこれが遂行された。

その目的や原因は政治的な問題に大いに起因していた。

レコンキスタの過程でスペインは統一当時、多民族国家の様相を呈していた。

南部にはいまだ多くのイスラム教徒が居住し、

その他にもムデハル(キリスト教国支配下のムスリム)、モリスコ(カトリックに改宗したムスリム)、が各地に散らばっており、

またバルセロナやカスティリャにはアルハマという共同体を形成していたコンベルソ(別名マラーノ、秘密裏にユダヤ教を信仰するユダヤ人)が存在した。

これらの異教徒たちは、当初は宗教的寛容の下で共存していたが、14世紀のペストの流行で富裕層の多いユダヤ人に次第に非難が集まり、

各地でポグロム(ユダヤ人虐殺)が見られるなど国内では次第に宗教的な不穏が漂い始めた。

カスティリャとアラゴンが合一、続いてレコンキスタが完了してイベリアに統一王国スペインが成立すると、

国王フェルナンドは国内統合のためにも信仰を固持する異教徒、特にモリスコとコンベルソは不安要素の最たるものであった。

ちょうど江戸時代初期の隠れキリシタン狩りのようなものか。

さらにフェルナンドはこのとき多額の負債をユダヤ系の金融業者から負っており、

うまくユダヤ人を排除できれば自信の負債を帳消しに出来るという思惑もあった。

そこで王は異端審問制度を応用して異教徒排除を実行しようとしたが、

異端審問は基本的には教皇の管轄下で行われるため、自身の思惑通りに事を運ぶには教皇の影響力の排除も懸案であった。

フェルナンドは枢機卿ロドリゴ・ボルハ(ロドリーゴ・ボルジア、有名なチェーザレ・ボルジアの父)を通じて教皇シクストゥス4世に働きかけ、

ついに国王監督の下で独自の異端審問の実施の許可を取り付けることに成功した。

このとき奔走したボルハ枢機卿は後に教皇アレクサンデル6世となるが、彼は中世の堕落した教皇の筆頭として記憶されることとなる。

元来「異端審問」とは「キリスト教徒でありながら正しい教義に従わない」者を裁くものであり、

フェルナンドの実行する異端審問はユダヤ人に的を絞って集中的に実施されたため当初から教皇は抗議したが、

スペイン側の武力をほのめかした脅迫を前に引き下がらざるを得なかった。

スペイン異端審問は次第にユダヤ教徒だけでなく、ムスリム、魔女、新教徒にまでその対象が及び、

自白を得るために拷問が繰り返され、刑罰には異端者を示す服を公衆の面前で着せるものから火刑に至るまで様々である。

このスペイン宗教裁判は近代スペイン最大の罪業として描かれることが多いが、

近年の研究では異端審問を受けた人数は総勢12万5千人近くに上るが、そのうち死刑判決を受けたのは2000人程度であり、

多くは無罪が即座に証明され釈放されるか警告を受けるに過ぎなかったともされる。

このスペイン異端裁判所長官で中でも著名なのはフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿であり、

彼はスペイン王カルロス1世(=神聖ローマ皇帝カール5世)の後見人であったことでも有名である。

ペスト

黒死病とも。
m2twでも不可避のイベントとして発生する。詳しくはFAQの「ペストの発生について」項を参照されたし。

ペスト(Pest)とはドイツ語であり英語では「plague(プレイグ、疫病一般も指す)」というウィルス性の病気。

ネズミやノミが媒介し、東方から運ばれた貿易品の毛皮が14世紀の欧州ペスト大流行につながったと推測される。

ヒト-ヒト感染も飛沫や血液で起こり、致死率は当時30%以上。生き残れば後遺症は少ないが、死者は全身に黒い痣が出来る

これは内出血によるもので、その様子から黒死病(Black death)の名が付いた。

現在も根絶できてはいないが、抗生物質等の開発により、初期に適切な治療を受ければ死亡率は数%。

ただし症状が進むとあっという間に死亡するため、診断には一刻の猶予も無い。

日本では1926年以降症例報告はない。

症状としては40℃近い高熱、リンパ腺の腫れが初期に起こり、末期には心臓衰弱を起こして死亡する。

発症位置により症例が異なる種類も数%存在するが、多くは上記のようなものであり、最後は全身にウィルスが回り

内出血を起こし、皮膚が黒ずんで患者は死亡した。

破門

Excommunication、ここではカトリックの破門について記述。

要は聖職者の聖職者として行使できる権利の一切の剥奪、聖職者で無い者には直接の影響は無いのだが…

中世では欧州諸国は皆カトリック教徒、教会は民草の暮らしと密接に関係していたため間接的な被害は多大。

また、中世でのカトリックの独特な制度として、教会の治外法権(アジール権)があった。

教会の敷地内にいる者は、たとえ誰であろうと狼藉を働くことは出来ない。

そこは神の代弁者である教会の主教の治める"国"であり、その意思を無視する者にはもれなく全カトリック教徒から激しい非難を受けた。

このような背景から、中世の教会はまさに聖域であり、追われる者の為の駆け込み寺の役割を果たしていた。

官憲やゴロツキ、果ては敵国の軍勢ですら、教会の敷地内では剣を納めるしかなかったのである。

ただし、破門されればそれも無し

国ぐるみで破門を喰らった場合、その国は「好きに蹂躙していいよ」との全カトリックからの許可を受けたも同然であり

往々にして略奪の対象となった。

破門ペナルティとしての治安低下はここに由来していると思われる。

教会の治安維持効果も同じく。

ちなみに教会をカタパルトで傷つけたり、自勢力の拠点の教会を破壊して資金を取り戻したりすると教皇様の不興を買うので注意しよう。

民族・人種

中世だけでなく、人類生誕から現在まで多くの民族や人種が存在する。

肌の色・髪の色・顔かたちだけではなく、その内面(信仰など)により民族人種が異なる事も考慮して頂きたい。

DNAの違いは民族・人種の違いに必ずしも同じ意味を持たない。

ゲルマン人

ゲルマン人.jpg

ノルマン人と同じく北方からやってきた人々。

出自は同じくスカンジナビアやユトランド半島であったりと、結構似通っている。

ノルマン人より数世紀、その活動が活発化するのが早く、4〜8世紀のゲルマン民族大移動(南下)により欧州に進出した。

彼等の血は各地で薄まり、その係累は多くに及ぶ。

ノルマン人、デーン人、(アングロ・)サクソン人、ブルグント人などなど…

欧州の民族は常に血の混じり合う状態であった為、線引きは不可能。

ゲルマンの血は北に行くほど濃い。また、神聖ローマには比較的純粋に近いゲルマン人が多かったようだ。

因みにゲルマン民族の大移動とは、4世紀頃東からやって来たフン族に追いやられたゲルマン人の係累のゴート族が、黒海付近から西へ移動したのが始まり。

ドミノ倒しの様に西に人が流れ、各地で中世の人々の祖先が定住する事になる。

フランク人

フランク人.jpg

フランク族とも、ゲルマン人の内の流れの一つとされる。

フランキスカ斧や形容詞のflank(率直な)とも関連性がある。

とは言え、厳密に説明するのは難しい。時代によってはラテン系・ケルト系・スラブ系果てはイラン系まで含めた集団がフランク人(flankish)として記録されていた

例もある。

ムスリムから見たカトリック系の西欧居住人がフランク人として記録されている例もある。

この時代の人種の区別は大凡古代ローマ帝国およびその後の分裂ローマ帝国時代の文献に頼る事が多いが、それらの中では

フランク族は「3世紀頃、ライン川流域にてまとまりを見せた蛮族」とされている。

そして彼らは髪の色や顔つきの特徴はまちまちであったが、同じような軍装(武器や防具、戦装束など)をしていた。

5世紀頃、ローマ帝国に傭兵戦力として雇われ名声を得る内に、メロヴィクスと言うフランク族の傑物が現れる。

その後は北ガリア(フランスや神聖ローマのあたり)に領地を得て、フランク王国が成立する。10世紀末に成立するフランス王国や神聖ローマ帝国の前身である。

ケルト人

ケルト人.jpg

一般にはケルト神話で有名な彼ら、中世においては欧州各地に散っている。

その血が濃い地域はドイツの辺りであるが、有名なのはブリテン島やアイルランド島の人々か。

英雄クー・フーリンや馬の女神エポナはこれらの島に住まった彼らの土着多神教から来る。

神話集のマビノギオン、主神の娘アリアンロッド、太陽神ルーに戦いの女神モリガン、最高神ダグダにその娘ブリギッドなど何処かで聞いた事のあるワードばかり。

キリスト教への改宗が進む中世において、段々と忘れ去られて行く多神教であった。

ドルイド(ケルト語でオークの賢者の意)は彼らの多神教信仰を司る祭祀であるとともに政治的指導階層でもあった。

中世の吟遊詩人の一つであるbardはこのドルイドの一形態であると言われる。

ノルマン人

ノルマン人.jpg

北欧に古くからいた人々を指す。

詳しく述べると、スカンジナビアなどやバルト海周辺に住んでいた人達。

所謂バイキングもノルマン人。

m2twに於いて活躍したノルマン人の流れの一つが英国。

コタンタン半島に定着していたノルマンディーに住むノルマン人は、北上し11世紀にノルマン・コンクエストを行い

サクソン人を駆逐し英国ノルマン朝を設立、m2twの英国メンバーは彼等である。

また、同じく南方に進んだノルマン人達はノルマンディー朝に少し遅れてオートヴィル朝シチリア王国を建設。

シチリア勢力使用プレイヤーも同じくノルマン人君主を操作する事になる。

東欧に進んだノルマン人はヴァリャーギと名を変え、ノヴゴロド公国を設立した。

チュートンキャンペーンでお馴染み。

その出発点でもあるスカンジナビアでも、デンマークやノルウェー王国を設立している。

果てはビザンティンのヴァランガー近衛隊など迄にも進出し、とても広い地域に分布した人種であった。

現在ではグリーンランド、北米カナダ沿岸にまで到達していたことが知られている。

グリーンランドという明らかに島の地理に反した名前は、植民を呼び込むためにつけたともされている。

カナダの植民地はヴィンランドと呼ばれ、こちらはぶどうの実る土地といった意味だが、こちらもグリーンランドに比べればましとはいえ、やや誇大広告か。

結局ヴィンランドの植民は失敗に終わった。

サクソン人

サクソン人.jpg

ノルマン人のライバル…

ヘイスティングズの戦いはノルマン人一派とサクソン人一派の英国王権を掛けた戦いであり、その結果はノルマン人の勝利に終わった。

ドイツ語ではザクセン人とも呼ばれる彼等は、ノルマン人の様に大きな国家はあまり形成しなかった。

欧州本土に居住し、m2twではイングランドの多くの人口を占め(ノルマン人は勝利したが、サクソン人全てを島から追い出したわけでは無い)

周辺国家にもその分布を見せる。

サーメ人

サーメ人.jpg

mt2wにおいては省略されている地形の、スカンジナビア半島北部に古くから住む人々。

比較的東西にも分布が広く、当時は狩猟生活を営みトナカイなどを狩っていたのだとか。

アイヌ人とも交流が有ったらしい…

中世においては隷属的扱いを受け、同郷をスウェーデンとノルウェー王国・ノヴゴロド(ロシア)に分割統治され、引き裂かれる。

狩猟の獲物を税として奪われ、サーメ人の生活は抑圧されていたと言われる。

ユダヤ人

アインシュタイン.jpg

ユダヤ教を信仰する人々、顔つきや肌の色は問わない。

中世においては「ユダヤ教信仰者」と置き換えて問題ない。

現代においては定義がやや異なり、過去にユダヤ人であった人達の子孫がユダヤ人(系)とされる。

ユダヤ教を信仰してなくてもOK。

初期において民族の分布はほぼユダヤ教の布教範囲と合致する。始祖の地はイスラエル、モーセが最初の著名なユダヤ人である(この頃はヘブライ人という呼称であるが)。

カトリックが広がるにつれ、ユダヤ教の迫害が激烈化する。中世においてはユダヤ人がいない国はないほど各地に広まった。

その活躍は目覚ましく、特に商業分野では並ぶ民族はいないと言われる。

逆に、兵士としてはあんまり能力を発揮しなかった。

ルーシ人

ルーシ人.jpg

スラブ系でも東に流れた人々の一派で、現在ではウクライナやベラルーシがあるあたりに住む人々。

また北欧から流れて来たヴァリャーギもルーシ人として含められる。

13世紀頃の認識としては大凡そのようなものであり、現代ではもっと狭義の人々を指すが

中世においてはキエフ大公国(9世紀〜13世紀のキエフを中心としたスラブ系民族の国)の人間の認識が正しいとされる。

m2twではキエフやハリチ、ビリニュスやスモレンスクなどのロシアやポーランドの勢力にルーシ人は多く含まれていると考えられる。

フランク人のように、遺伝形質は異なるが文化・習慣によってまとめられていた人々だと考えられる。

スラブ人

スラブ人.jpg

東欧のマジョリティ。ロシアやハンガリーやポーランド、神聖ローマなどに属する。西欧
圏には少ない。

ゲルマン人やノルマン人よりややコーカソイド系の特徴を有する外観。

薄く広い生活圏を有しており、東欧からバルカン半島一帯、小アジアにも分布があった。

「スラブ」の元となった言葉は、所謂「slave」では無く彼等の言語「スロバ(言葉)」である。

大戦時には彼等はひどい扱いを受けた人種の一つではあるが…

カルパティアがその始祖の地と言われ、そこから東に移り住んだ東スラブ人はロシア国家の多数派を占めた。

西に進んだ彼等は西スラブ人、バルカン半島を南下した彼等は南スラブ人と分類される。

余談ではあるが、m2twMAP最北東にある拠点ブルガル。

バルカン半島に現存する「ブルガリア」という国との関連を疑った人も多いと思うが、ブルガリアは拠点ブルガルを中心として活動した

テュルク系の遊牧民ブルガール人が現地のスラブ人と文化の融合を果たして形成した帝国を元としており、

中世では一応勢力の一つであったが、オスマン帝国に併合され消滅した。

現在のブルガリア王国が再興するのは、オスマン帝国の崩壊が始まる19世紀以降の事である。

当然、建国の礎となった東方からの移民ブルガール人の形質的特徴は殆ど失われ、現ブルガリアはスラブ系民族の国となっている。

マジャール人

マジャール人.jpg

コーカソイド系人種の一、現在ではハンガリーのマジョリティを占める。

ブダペストやザグレブ辺りに居住していた人々。

一桁世紀頃にウラル山脈にて遊牧生活を行い、→黒海北岸→ハンガリー平原と流れて来て定着した遊牧民。

当時は馬の扱いに長けた遊牧民族との認識が一般的であった。

ハンガリー建国のイシュトヴァーン一世もマジャール人。

後世においては優れた音楽性で名を知らしめた。

ハンガリー人≒マジャール人である。

トルクメン人

トルクメン人.jpg

カスピ海を中心とする遊牧民であり、言葉がトルクメン語で有る事がトルコ人とは異なる。

(トルコ人はアナトリアやバルカン半島に定住・移住した、また話す言葉もこの時代はトルコ語)

トルクメンとはトルコの男達、と言うでは無く「テュルク人に似た人」と言う意味。

「トルコ」と「テュルク」も厳密には異なるが、まぁこれら3種はは比較的近しい人種どうしで有る。

テュルク系という大きなくくりがあり、そこから諸々の人種別に分けられる。

コーカソイドとモンゴロイドの特徴を併せ持つ外見。

この時代はムスリムが多いが、シャーマニズム信仰でも有名。

カザフ人

カザク人.jpg

カザク人とも。Kazakhs(英)。
カザフとは放浪・独立などを意味するテュルク諸語であり、ロシアのコサック(英:Cossack)とほぼ同語源を持つ。

中央アジアに広く分布した遊牧民であり、ロシアやトルコ、東欧に中国と色々な地域にいた人種。

いわゆるアジア系の顔つきであり、モンゴル人とは区別される。

地続きの為に両者のボーダーは曖昧だが、大雑把に言うと中央アジアの西北はカザフ、北東はモンゴル人と言った感じ。

クマン人

「クマン」とは黄色を示す言葉らしく、おそらく彼らの髪の色から由来するといわれる。

トルコ系の遊牧民族で本来は黒海北岸からバルハシ湖に至るキプチャク草原で遊牧をしていた。

後のジョチ・ウルスが俗に「キプチャク・ハン国」と呼ばれるのは

このキプチャク草原のほぼ全域を国土においたからである。

11世紀に東欧に移動し、ビザンティンやロシアと交戦、彼らとりわけロシアにとっては長年の脅威となる。

一部はカルパティア山脈近辺に住み着き、ハンガリーの国境を脅かしさえした。

一時チュートン騎士団がハンガリー王の要請でこの地で対クマン戦の前線に立ったこともある。

13世紀のモンゴル人の進出によって抵抗したクマン人の多くはマムルークとして売却されるか、

或いは傭兵となることで部族としてのクマン人は消滅した。

このとき売却されたマムルークの中にかのバイバルスも含まれていたという。

彼はトルコ系キプチャク(クマン)人の末裔なのである。

なお、ロシア側ではポロヴェツ人と呼ばれ、

ロシアの作曲家ボロディンの「だったん人の踊り」のだったん人とはこのポロヴェツ=クマン人のことである。

タタール人

タタール民族.jpg

ロシアが中世時代に使った、東方から来たモンゴロイドやテュルク系の遊牧民の引っ括めた他称。

外観的特徴もアジア系からコーカソイド系の間で様々。

語源は「余所者」と言う意味のテュルク語。タタール、韃靼(だったん)、タルタルなどとも言われる。

タルタルソースやタルタルステーキで有名、生肉は注意して食べよう。

モンゴル民族

モンゴル民族.JPG

良く名のしれたモンゴル帝国の人々。

モンゴロイドと言うアジア中部〜北部の形質的特徴を強く持つ。

瞼の上の皮が垂れ下がる為、水滴を横にした様な形の小さな目が特徴。

蒙古斑なども有名。胴長短足で髪は黒い、我々日本人もモンゴロイドの特徴を多く持っている。

モンゴル人は馬と共に生きる、世界でもっとも有名な遊牧民族。

中世における遊牧民族は、近代に至るまで定住民族より世界の多数派を占めていた。

フン族

フン族.jpg

Hun、中世ヨーロッパにつながるゲルマン民族大移動を引き起こした張本人。

4世紀頃にモンゴルと同じ様な形でヨーロッパに侵入し、北や東から逃げて来た人々がヨーロッパ中に追いやられて…

と言うのが中世の始まり、民族大移動の原因。

彼らの出自は明らかではないが、モンゴル帝国のご先祖様だとの説が有力。

最終的には瓦解してフン族は消滅し、各地で名前を変えた人種として定着する。

マジャール人やブルガール人はフン族の後継者を名乗っている。

モンゴルと同じく弓騎兵として名高い。

アルメニア人

アルメニア人.JPG

アルメニア王国(紀元前2世紀〜紀元後11世紀)を築いていた人々で、アナトリア半島の付け根辺り(エレバン・トビリシなど)に多い。

古来より兵士として優れた能力を発揮し、傭兵稼業などで名を馳せた。

また、その商才もユダヤ人と比較されるほど優れていると言われた。

これには中東のキャラバン護衛を、アルメニア人の傭兵が引き受けていたと言う背景が有るそうな。

アルメニア王国の後身であるアルメニア・キリキア国の時代になると、東西南北に進出した。

アラブ人

アラビア人.jpg

北アフリカからアラビア半島、西アジアまで広い地域に居住していた人達。

地域にも寄るが比較的白人に近い明色系の肌色を持つ。

所謂ターバンを被ってラクダに乗り、バザールで商いをする…そんなイメージ表現がしっくり来る彼等。

が、彼等の認識では「アラブ人」とは単一の肌の色や髪の具合で分類されるものでは無く、その思想に重点がおかれている。

始祖は旧約聖書に登場するアブラハムであり、自身はその子孫と言う考え方が一般的。

中世においてはイスラムに改宗するアラブ人も結構多かったが、先祖にアラブ人であればアラブ人のアイデンティティは保持された。

中世では西欧を凌駕するイスラムの先進文明の立役者であり、彼等の知識は産業革命により立場が逆転するまで、

欧州諸国の憧れのであり続けた。

スーダン人

スーダン人.jpg

現在のスーダンはエジプトの真南にある、大体エジプトと同じ位の面積の国である。

スーダン人はこの国のマジョリティを占めている。

大凡黒人といえばスーダン人がそのイメージとしては正しいだろう。

人種の定義が曖昧であった中世においては、アフリカ大陸のサハラ以南一帯、アフリカ大陸の真ん中の1/3位に住んでいた黒人を引っくるめて「スーダン人(Sudanese)」と呼んでいたそうな。

同じくこのエリアは、「歴史的スーダン」と呼ばれ現在のスーダン国とは区別される。

自身をそう呼ぶトゥアレグ族などと違い、「スーダン人」と言うのは他称に近い。

ベルベル人

ベルベル人.jpg

北アフリカの先住民。

ネグロイドでは無くコーカソイドの形質を持つ。

ベルベルと言うのは未開人である「バルバロイ」から名付けられた他人称であり、本人達は「アーマディーグ族」と名乗る。

ベルベル族の中にトゥアレグ族は含まれる、その他にも多くの部族に細分される。

スーダン人とは異なる形質のアフリカ土着民。

分布域はかなり重なっているが、強いて挙げればアフリカ中西部はベルベル人、中東部はスーダン人が多いと言った感じ。

古代ローマの時代から(この頃はヌミディアと呼ばれた)、北からの侵略を受け続けて来た歴史を持つ。

8世紀頃、アフリカ大陸北西に興ったウマイヤ朝の支配により土着信仰からイスラムへ改宗が進んだ。

その後は良質な兵士として活躍し、中世にはベルベル人の王国の勃興が幾つか存在した。

トゥアレグ人

トゥアレグ人.jpg

ベルベル人の系の人種の一、ラクダに乗ってターバンを巻き、キャラバンで大移動…そんなイメージ。

寧ろキャラバンを襲う好戦的な面もあったのだとか。

ムスリムが多いが、彼らの風習として男性は肌を出さず、女性の肌の露出に関しては逆にそれほど厳格ではないらしい。

彼らのトレードカラーは青で、青い布を好んで着用する。

珍しく女尊男卑社会なのだとか。

レバント

地中海の東側沿岸一帯を指す地名。

所謂カトリックやイスラムの「聖地」はこのエリアだが、その地域名の由来は「日が登る場所」と言う意味であり、

「聖なる土地」や、「教義の誕生の場所」と言った意味は無い。

北はアンティオキア、南はガザ、東はダマスカスらへんまで。

中世に於いては十字軍遠征の大舞台となった。

立地上、東洋と西欧の交易路であり続け、沿岸の港湾都市はレバント貿易で古来より栄えていた。

ここから出た船は地中海に散り、沿岸の全ての都市に遍くオリエンタルな物品の伝来をもたらした。

因みに現在、レバノン(首都ベイルート)があるがこれはレバントとは無関係、ギリシャのレパント(海戦で有名な都市)もたまたま響きが似ている地名なだけで関係ない。

十字軍

西欧カトリック勢力による聖地奪回を目的とした一連の遠征の呼称。

十字軍の顛末については様々な文献、サイトなどで紹介されているので微細な点は割愛するが、大まかに流れを辿ると、

・第1回(1096-99)…ビザンティン皇帝の救援要請に応えて出兵。エルサレム攻略。

             聖地に十字軍国家建設(エルサレム王国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エデッサ伯国)。

・第2回(1147-49)…イスラム勢力の反撃、エデッサ伯国陥落。ダマスクス・エジプト他の攻略失敗。

             サラディンの攻勢。ハッティンの戦い(1187)で十字軍国家大敗、エルサレム陥落。

・第3回(1182-92)…リチャード獅子心王(英)、フィリップ尊厳王(仏)、フリードリヒ赤髭帝(独)参加。

              フリードリヒは途上で没、フィリップも早々に帰国し、実質リチャードとサラディンの戦い。

・第4回(1202-04)…ヴェネツィア主導、コンスタンティノープル攻略。ビザンティンに代わりラテン帝国建国。

・第5回(1217-22)…エジプト遠征失敗。

・第6回(1228-29)…独皇帝フリードリヒ2世が交渉でエルサレム確保(10年間)。

・第7回(1248-54)…仏王ルイ9世聖王主導、エジプトでマムルークに大敗。マムルーク朝建国。

・第8回(1270)…聖王ルイのチュニス遠征、王自身が没して失敗。

通説では1291年にアッコン(アクレ)陥落で十字軍は終了したものとされる。

だが、上記の十字軍はあくまでも「狭義の」ものであり、「広義の」十字軍はレコンキスタやバルト海への北方十字軍なども含まれた。



十字軍は中世においては軍事遠征とは見なされず、「巡礼」の一環とされた。ラテン語で巡礼を指すPeregrinatioは、当時は十字軍の意味でも使用された。

従って軍事行動は本来は2次的なものであり、加えてこれらの行為はキリストの隣人愛に反するものであった。

こうした矛盾点を解決すべく動いたのが、12世紀最大の神学者聖ベルナール(ベルナルドゥス)である。

彼は十字軍には2つの目的があるとした。一つは自らの信仰を守らんがために、キリストの戦士は聖地を異教徒から奪回する義務があるということ。

もう一つは異教徒の誤った思想を矯正すべく、キリスト教を拡大する義務をキリスト教徒が負うことである。

彼によって「キリストの戦士」は2重の武装に成功した。肉体は鎧によって、魂は信仰によって守られる。そしてその刃は異教徒との戦いに向けられるのである。

この言説が以降の十字軍の根拠となり、十字軍は次第に聖地奪還のみならず、異教徒との戦い全てに適用された。

レコンキスタや北方十字軍の進展、騎士修道会の成立などは全てこのベルナールの恩恵によるものである。

十字軍は信仰の拡大を目的とした時点で「ヨーロッパの拡大」の端緒ともなった。フロンティアのキリスト教化はすなわちヨーロッパ世界の拡張を意味する。

後の大航海時代にもコロンブスをはじめ多くの航海者や国王が教皇から十字軍の勅許を得ている。

また近代になると、拡大の理念はキリスト教から「理性」に取って代わり、最終的には20世紀の帝国主義に至るヨーロッパの一連の拡張政策に繋がるのである。

本編での十字軍は教皇の指示orカトリック国が教皇へ依頼することで生じる。

しかし依頼を通すには教皇との高い信頼関係が必要である。

また信頼度がギリギリだと十字軍を頼んでも却下されることもしばしば。

詳細は「戦略」ページの教皇と十字軍の項目を参照のこと。

ジハード

ジハードはしばしば「聖戦」と訳されるが、これは厳密には正しくない。

元来ジハードは「努力」「奮闘」の意味があり、ここで言う奮闘には戦闘は含まれない。

ジハードは2種類に分けることが出来る。

ひとつは個人の内面との戦い、すなわち精神鍛錬であり(大ジハード)、

もうひとつは自らの信仰に危険を及ぼす外的な要因との信仰防衛・拡大の戦いである(小ジハード)。

後者の思想はイスラーム帝国拡大の原動力ともなったが、

9世紀に分裂や戦闘がマムルークに依存するようになったことでジハードは11世紀までにいったん廃れた。

ジハードがイデオロギーとして復活するのは十字軍が侵略した12世紀においてである。

シリアの一王朝ザンギー朝の2代目の君主ヌール・アッディーン(ヌレディン、Kingdomsで登場)が、

分裂にあえぐシリア・イスラム諸国の統合のためにジハードに再解釈を施したのである。

彼はジハードのイデオロギーの骨子を以下の3点に絞った。

①フランク(西欧のカトリック信者)とイスラムを隔てる深い亀裂

②その事実に無関心を決め込むものへの糾弾

③聖戦への参加の呼びかけ

このイデオロギーを発表すると同時にヌール・アッディーンは大々的に宣伝し、最終的にシリア地方の統一に成功するのである。

後にこの思想は彼の臣下であり、後にライバル・後継者となるサラディンに継承される。

現在の原理主義勢力などが好んで持ち出すジハードはこの十字軍期に成立した思想の伝統を受け継ぐものである。

本編でのジハードは信心が4以上のイマームがいれば容易に起こすことが出来る。

十字軍と異なり教皇に断られたりしないので便利。もちろん他勢力のイマームが先立って宣言することもある。

エジプトはゲーム開始時にエルサレムなどの都市にジハードを起こして将軍に特性をつけまくるのが鉄板。

地中海貿易

中世限定の地中海貿易に付いて解説。

この時代の主な取引品目はやはり、レバントから運び出されるイスラム圏の香辛料、絹織物、綿織物、ガラス器など。

どれもヨーロッパには無い、イスラム先進文化の産物であり、ヨーロッパの出せる物は精々イタリアやフランドルの織物くらいだった。

なので、それ以外の手段(武力や権益の獲得)でヨーロッパ諸国は立場を強めなければならなかった。

これに関連して十字軍や、ロンバルディ同盟などが興る。勿論北海貿易なども陸路を通して密接に影響を与えたのだから少し難しい。

また地中海は穏やかな海である為、航行が比較的容易。その為海賊の発生頻度も多く、自衛出来る為の軍船の発達もこの時期著しい。

14世紀末には外洋への貿易にシフトして行き、その勢いを失う。しかし日常品のやり取りなど一定の需要は有ったようだ。

バルト海貿易

北海貿易と併せて解説。

やはり中世以前から行われていた、北の荒れた海での貿易で、地中海に比べて航行の難易度が高い。

また、冬季には海の凍結により航行が不能になる地域も多数存在する。ブリテン島北部やスカンジナビア半島の中~北部、バルト海では

フィンランド湾辺りがしばしば凍結していた。

因みにバルト海の入り口となるスカゲラク海峡とかは海流のお陰であまり頻繁には凍結しなかったらしい。

輸出品目としてはやはり魚の塩漬け。他に岩塩や蜂蜜、蝋、船などの木材、タール、穀物など。どちらかと言うと豪奢で無い物が多く

量で稼いでいた様だ。

無論、琥珀や毛皮、南ドイツからの銀なども流通していたので一概にそうとは言えないが。

イングランドやフランドルからは毛織物が流通、この東西ラインは中世の間ハンザ同盟などの発展を促した。

また、地中海貿易とも密接に関わり、その中間都市であるブダペストやウィーンなんかも大いに栄えたようである。

北海貿易

ブリテン島-スカンジナビア半島、そしてヨーロッパ大陸で囲まれた北海を舞台にした海上貿易。古くはバイキングの独壇場だった。

北海貿易で主な品目は三つ、魚と羊毛(毛織物)そして穀物。特に魚は北海で大量に取れる事もあり、しばしば海は荒れたが多いに漁師の生活を支えていた。

また、魚は宗教的理由で肉を食べられない時期でも例外とされていた為、単なる栄養源以上に重要な役割を果たした。

タラやニシンが主であったこれらの魚は、塩漬け・酢漬けなどにされ保存食として利用したり、遠く異国まで運ばれたりしたとか。

ちなみにこの頃の海での漁は、船に乗って適当に網を引いて回り、そのまま海岸へ…と言うものだったそうである。

それだけでも魚がザクザク獲れるほど資源は豊富で、荒々しい北海であるにも関わらず多くの漁師が生活を営んでいた。

そのまま魚は現地で消費され、遠くへ運ばれる場合は前述の通り塩や酢などの処理を施されて樽に詰められて運ばれた。

内地の人が新鮮な魚を食べる場合、こちらはもっぱら川魚が利用されたようである。

中東貿易

中東すなわちアラビア半島を中心とする一帯(広義には北アフリカやアナトリア、インド西部一帯含む)での貿易。

主な輸出品目は、アラビア半島産のの香辛料やガラス、インドからの綿や絹や宝石、また種々の香辛料や茶など。

北アフリカにおいては岩塩や象牙、更にその南のマリ王国からは金が輸入された。

また、全地域に渡って流通していたのが「奴隷」である。

これは中東貿易に限ったことではなく、ヨーロッパの商人達も人攫いから奴隷を仕入れたりして商取引していた。

ノルマン人、アラン人、ベルベル人、スラブ人、アルメニア人、スーダン人その他様々な人種が取引され、その地域により珍重される人種は異なった。

奴隷の役割は時代により変わる。身の回りの世話だったり肉体労働だったり、戦闘に従事したり、学のあるものは家庭教師をやったりなど。

この頃のアラブ人は、奴隷商人としてのイメージもあるかも知れないがそれは一般的に誤解である。確かに彼らは奴隷を扱っていたかもしれないが

それは当時彼等が世界的に力のある商人だったから、取扱う全ての物の金額自体も多かった。絶対値でくらべれば奴隷商売で得る金額は大きかったが

全利益からの割合で見ると、どこの商人も一定の奴隷購入・売却はやっていたと思われる。

シルクロード

シルクロード(絹の道)は、一般的には中国の長安からレバントまでほぼ真っ直ぐに東西に伸びる商路と考えられるが、勿論海路もある。

インド洋や紅海、地中海を利用した経路もシルクロードに含まれる。要は中国とヨーロッパを結んでいれば定義には含まれる様だ。

が、東西貿易が行われていた古代や中世、近世までにおいてもシルクロードと言う呼称は無かった。この名前が生まれるのは20世紀の事だったりする。

中国やヨーロッパの商人が東の端から西の端までぶっ続けで品物を運んでいた訳ではもちろん無い。大体の品物は途中で

別々の商人と物々交換されていたと考えられる。

貿易の基本であるが、同じ物でも扱う場所によってその価値は大きく異なる。金の価値の高いアフリカや日本、銀の価値が高い中国、その他

色々な物がその地域毎に珍重された。これはm2twにおいても「首都からの距離と特産物の価値は比例」と言うシステムで表現されている。

パレスティナ

イスラエルの地とも呼ばれる、地中海東岸。

シリアとは定義により微妙に被ったり被らなかったり。

エルサレム・アレッポ・ガザなどがこの地域に属する。

古来より多くの戦闘が行われて来た地域である、現在も叱り。

イスラム・カトリック・ユダヤ教共通の聖地が存在する為であるが…

因みにパレスティナ人とは、この地に住むカトリック・イスラム教徒を指す。

ユダヤ人は比較的パレスティナに入植した時期が遅い為、一般的にはパレスティナ人とは認識されない。

シリア

レバントに属する一地方。

アンティオキア・エデッサ・ダマスカスを結ぶ三角地帯辺り。

古代ローマ帝国のアッシリア州であったのちは、エジプトウマイヤ朝の支配におかれ、m2twの時代に入ると強大なオスマン帝国の一地方として組み込まれる事になる。

乾燥するが肥沃な場所もある土地で、ユーフラテス川流域や地中海沿岸を中心に栄えた。

紀元前から農耕をしていた形跡も見つかっている。

聖ヨハネ騎士団の拠点であった砦「クラク・デ・シュヴァリエ」が有名な史跡、十字軍キャンペーンでも出てくる。

当時は、シリアはアンティオキア公国の支配下に置かれた。


添付ファイル: fileTudor_Rose.jpg 368件 [詳細] fileFlag_of_the_City_of_London.png.jpg 131件 [詳細] filemissaglia_armor.jpg 432件 [詳細] filevarangian guard.jpg 663件 [詳細] filemedieval.jpg 776件 [詳細] filetimurid_dynasty.jpg 503件 [詳細] filetimurid.jpg 127件 [詳細] fileOttoman empire.jpg 132件 [詳細] fileWhite_Sulde_of_the_Mongol_Empire.jpg 440件 [詳細] fileReconquista.jpg 130件 [詳細] fileThe Norman Conquest of England.jpg 554件 [詳細] filebard.jpg 536件 [詳細] fileRenaissance.jpg 554件 [詳細] fileFugger.jpg 158件 [詳細] fileBourbon.jpg 139件 [詳細] fileKnight.jpg 512件 [詳細] fileBattle of Hastings in Bayeux.jpg 141件 [詳細] fileHohenstaufen.png 121件 [詳細] fileMedici.jpg 128件 [詳細] fileHabsburg.jpeg 141件 [詳細] fileアインシュタイン.jpg 131件 [詳細] fileバイバルス.jpg 117件 [詳細] fileサラディン.jpg 130件 [詳細] fileヌレディン.jpg 189件 [詳細] fileエルナン・コルテス.jpg 139件 [詳細] fileフィリップ尊厳王.jpg 135件 [詳細] fileリチャード獅子心王.jpg 116件 [詳細] fileタタール民族.jpg 114件 [詳細] fileフランク人.jpg 155件 [詳細] fileケルト人.jpg 145件 [詳細] fileノルマン人.jpg 143件 [詳細] fileカザク人.jpg 163件 [詳細] fileクマン人.jpg 128件 [詳細] fileフン族.jpg 149件 [詳細] fileアルメニア人.JPG 144件 [詳細] fileモンゴル民族.JPG 163件 [詳細] fileWW.png 136件 [詳細] fileゲルマン人.jpg 125件 [詳細] fileサーメ人.jpg 130件 [詳細] fileサクソン人.jpg 142件 [詳細] fileトゥアレグ人.jpg 131件 [詳細] fileベルベル人.jpg 134件 [詳細] fileアラビア人.jpg 119件 [詳細] fileトルクメン人.jpg 146件 [詳細] fileルーシ人.jpg 140件 [詳細] fileスラブ人.jpg 174件 [詳細] fileスーダン人.jpg 131件 [詳細] fileマジャール人.jpg 139件 [詳細] filehistory.png 121件 [詳細] fileEstatua_del_Cid.jpg 162件 [詳細]

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2014-09-14 (日) 14:35:25 (1861d)